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The Servant King Who Gave His All <strong>(マルコの福音書 12章38~44節)</strong>

(マルコの福音書 12章38~44節) 2019年9月29日

先週はある律法学者がイエスに、最も大切な律法について質問しましたね。その後イエスは「宮」で人々を 教え続けました。今日はイエスの「宮」での教えから学んでいきます。

1)宗教を見せびらかす人々(38~40節)

パリサイ人やサドカイ人と対立してのち、「誰もイエスにあえて尋ねる者がいなかった」(34節)とあ る。そしてイエスは引き続き「律法学者たちに気をつけなさい」と警告する。学者たちは「長い衣を着て歩 き回る」、つまり自分が宗教的に敬虔であることを見せびらかすのが好きだという。認められることに執着 し、外面を磨く。「広場で挨拶される」人から敬われるために生きている。だからイエスは、マタイ23章5 節で「彼らがしている行いはすべて人に見せるため」と言う。もし私たちが「すべて神の栄光のために」と 口で言いながら奉仕をしても、心の中をよく吟味する必要がある。

現代でも、外面を磨くことへの執着が文化になっている。誰もが人の賞賛を強く求めている。「会堂で上 席に、宴会で上座に」(39節)座ること自体が罪なのか?そうではない。しかし何かが(良いものでさ え)あなたの心の中で究極の価値となるなら、それは偶像である。30、31節でイエスは、最も重要な戒め は心、いのち、知性、力を尽くして「あなたの神、主を愛する」ことだと教えられた。律法学者たちは戒め をよく学んでいたが、力や高い立場を神よりも愛していた。もしあなたが職場で、神を愛するよりも、栄誉 や高い地位を愛しているなら、何かに失敗する時が来たら恥に打ちのめされてしまうだろう。

「やもめの家を食い尽くす」(40節)とは…。1世紀から、律法学者たちは熱心なユダヤ教徒にもてな しを受けていたが、中には、地位を濫用して貧しいやもめらから搾取する者もいた。今日も、労働者を不法 に酷使し、報酬を払わない企業もある。イエスは不正な学者たちに言及し、彼らが「見栄をはって長く祈 る」と指摘する。宮は「あらゆる民の祈りの家」(11章17節)であるはずなのに、他人に感心してもらう ための祈りとなっている。こういう人たちは「より厳しい罰を受ける」とイエスは言う。旧約聖書に、やも めを虐待する者は滅ぼされるとある(イザヤ10章1~4節)。いかなる不正も罰を免れないし、宗教学者た ちはより厳しい裁きを受けるというのである。しかしイエスの教えはそれだけではない。。。

2)自分を犠牲にして与える者(41~42節)

(註:宮の中には、異邦人の部屋、婦人たちの部屋があった。)イエスは11章の異邦人の部屋から、婦人 たちの部屋へと移られた。婦人たちの部屋の壁には、らっぱの形をした入れ物が13個、献金のために取り 付けられていた。

イエスは「献金箱の向かい側に座り」、人々が献金箱にお金を投げ入れる様子を「見ておられた」(41 節)。(英語では”watched”:観察するという語)。献金は、キリスト者が神に捧げる礼拝の、一つの形。 だから、その心がどこにあるかが非常に重要。律法学者たちは人々にどう見られるかを気にしていたが、神 にどう見られるかは頭になかった。しかしイエスは「見ておられ」、彼らが神を礼拝しているかどうかをご 存知だった。弟子たちには「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、 天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」(マタイ6章1節)と教えられている。献げもの をするとき、神のみがあなたの聴衆である。

「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた」とある。エルサレムでは『過越しの祭り』の期間中であっ た。レプタ銅貨はパレスチナで最も小額の通貨で、2レプタあっても宮の建築費として献金箱に入れるか、 小さないけにえを買うお金にしかならなかった。

想像してみよう。たくさんの硬貨を献金箱に入れたら、ジャラジャラと大きな音がして、人々は誰がそん なにお金を入れたのかを見るために振り返るだろう。自分の富を見せびらかすのは容易い。一方このやもめ のコインは、「ティン」と小さな音を立てることしかできなかった。着ている物も金持ちの長い衣のように 立派ではなかっただろう。しかしこのやもめの心は神に向いていた。

ここで律法学者たちや、偉そうな金持ちを批判するのは簡単である。しかし私たち一人ひとりも、神の前 に自分の心を問うてみる必要がある。私は自分の賜物を、時間を、お金を、そしてエネルギーを、神に献げ ているか?と。最も大きな間違いは、神に属するものを、私たちが神にお返しせず、自分の利益のために用 いていることだからだ。17節でイエスが「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と 言われたのは、税金がカエサルに属するなら、礼拝と献げものは神に属するという意味であった。あなたは 神の「かたち」に造られた、だからあなたの人生と、あなたが持っているものは神に属する。あなたのすべ てが、神への献げものであってふさわしい。

神がくださった賜物、時間、エネルギーを、あなたは何のために使っているだろうか。あなたにいのちを くださった神に、あなたが持っているものを捧げない、それほどの間違いがあるだろうか。もし学者たちが 「より厳しい罰を受ける」のだとしたら、神に対していのちを捧げることを拒む者たちにも同じ罰があるこ とだろう。しかし、この罰の中に私たちはとどまる必要がない。私たちが捧げることができないものを、捧 げてくださった方がおられるからだ。

3)私たちのために、すべてを捧げられた方 (43~44節)

「あり余る中から投げ入れた」(44節)人々を褒めなかったイエス。裕福な有名人が多額の寄付をする 時、人々は彼らを褒め称える。なぜイエスは褒めなかったのか。犠牲を伴わない捧げものだったからだ。彼 らは何も失わなかった。なぜイエスはこのやもめを「だれよりも多く投げ入れた」(43節)と褒めたの か。貧しい中から、持っているすべてを捧げたから。彼女の礼拝は、失うものの大きい行為だった。しかし 彼女はすべてを捧げることで、自分の必要を満たしてくださる神に信頼を寄せた。

旧約聖書は、持ち物の10分の1を捧げるよう教えているが、彼女は10分の10を捧げた。なぜそのような ことができたのか。答えはただ一つ、彼女が神を愛し、自分を養ってくださる唯一の方として信頼していた から。もし私たちが本当に、自分のいのち、仕事、健康のすべてが神からのものと信じるなら、なぜ神に捧 げられないものがあるのだろうか。

金持ちに恵んでもらわなければ生活できなかった彼女が、献金を免除されることを求めなかった。自己憐 憫して「これしか持ってないなんて、不公平です」とは言わなかった。彼女の富は、彼女の持ち物ではな かった。彼女の富は、神の寛大さによって定義されていた。あの裕福な青年は、持ち物を貧しい人に分け与 えるように教えられて「悲しみながら立ち去った」(10章22節)。学者たちは自分たちの評判や富よりも 神を愛すことができず、貧しいやもめたちを愛することができなかったが、このやもめは自分のすべてを尽 くして神を愛した。この愛は、何かを私たちに思い出させないだろうか。イエスはご自分がメシアであるこ とを教えられたばかりだった(36節)。イエスがやもめの献金を褒められたのは、それがご自分がこれか ら十字架上で示される犠牲によく似た例であったからではないか。だいぶ後に、パウロはコリントの教会に 宛てて書いた手紙の中で、主の犠牲に言及している。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたの に、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者と なるためです」(第二コリント8章9節)

「タイズ(10分の1献金)が旧約聖書のルールなら、新約以降の教会が捧げものを求められる理由はない だろう?」と言う人もいる。しかしむしろ「福音を理解した私たちが、旧約で求められたタイズよりも捧げ ない理由はないだろう?」と問うべきだ。マケドニアの教会は規定以上に捧げていた(第二コリント8章3 節)。どうしたら私たちは欲から解放され、神への捧げものとなって自由に生きることができるだろうか。 十字架ですべてを捧げられたイエス、私たちのために喜んで、貧しくなられたイエスに目を留めよう。貧し さの最たるものは、すべての祝福の源である神から切り離された状態。私たちは罪を犯し、その裁きを受け るにふさわしい者だが、キリストがそれを代わりに受けてくださった。すべての王の中でもっとも豊かであ られた王が、あなたが「富む者となるため」、その富を投げ出された。このキリストの恵みを今日味わって ください。それがあなたの心を溶かし、あなたを新しくするまで。毎日、毎時間、毎分、あなたが安息と、 平安と、喜びと、満足を経験するまで、あなたの心の中で欲望の鎖が壊れるまで、キリストの満ち溢れる恵 みを見つめてください。キリストこそが真の富です。

イエスは「会堂で上席に、宴会で上座に座る」ために来られなかった。最もさげすまれた場所を、十字架 を、選ばれた。そこで、私たちの罪のため、恥と貧しさとを味わわれた。律法学者たちと対照的に、イエス は弱い者、社会から追い出された者、やもめ、そして罪人たちに、ご自分のいのちを惜しみなく差し出され た。私たちが生きることのできない犠牲的な生き方を、イエスは示され、私たち全員が捧げるものをはるか に超えて、ご自分自身を捧げられた。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っていま す」とパウロは言う。キリストにより、あなたがたは富んでいる。その恵みをよく見てください。

もしキリストの恵みと寛大さに圧倒されているならば、私たちも寛大で献身的な生き方をするようにな る。あなたのために血を流された寛大な救い主の姿を見るとき、あなたは自分の時間や賜物やエネルギーを 彼のために出し惜しむことはできないだろう。私たちの与えられているすべてを、キリストとその福音のた めに、共に捧げていきましょう。

The Gospel of Mark Series | Ch. 12: 38- 44 | Pastor Joey Zorina

In this episode we learn about how the gospel frees us from the grip of greed and motivates us to live sacrificially and generously. The gospel is the antidote to everything.