什一献金は今日でも必要でしょうか?

Is Tithing Required Today? (for English click here) 什一献金は今日でも必要でしょうか?

什一献金(収入の十分の一を献金すること)について反論や混乱を招いている主な原因としては、それが旧約聖書で定められていた事であるため、「新約聖書の時代の教会でも必要なことなのか」という疑問が湧いてきます。

実際、新約聖書のどこにも什一献金を捧げるべきだとは書いていません。教会によってはマラキ書3:10の聖書個所を乱用して、義務的に献金を行い見返りを期待するよう教えていますが、新約聖書の中では什一献金をするように命令している箇所はありません。

しかし、使徒パウロがコリントの教会に手紙を書いた時、彼は全く異なる方法でアプローチをしました。彼はコリントの教会に惜しみなく捧げるよう励ますため、マケドニアの教会の気前の良さを例に取りました。

パウロは彼らに(2コリント8:1)“マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みについて”知ってほしかったのです。それらの教会は(2節)“苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となった”のです。

彼らの体験した神の恵みがあふれ出て、彼らの貧しさにも関わらず、惜しみなく施す富となりました。彼らを惜しみなく施すよう突き動かしたのは、福音の恵みによる“満ちあふれる喜び”でした。言い換えれば、彼らは什一献金以上(旧約聖書で必要とされていた以上)に捧げていたのです。  

たくさんの恵みを受け取った新約聖書の信者たちとして、パウロは(3節)“彼らは自ら進んで、力に応じ、いや以上にささげ”  たと言いました。

彼らは什一献金以上に捧げました。そしてパウロは義務感や意思の力に訴えかけるのではなく(8節)“私は命令するのではありません”と続けました。その代りに、既に受け取っている福音の豊かさを思い出すように言いました(9節)“あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです”。

ティム・ケラーは新約聖書のザアカイがイエスと出会った時の場面を思い返し、ザアカイが悔い改めた後についてこのように言いました。

“ザアカイは収入の50%を貧しい人々に捧げると約束した。それは律法で定められた10%を遥かに上回る額である。今日では、収入の10%を寄付するというと莫大な額のように思われるが、裕福な人々はそれ以上に捧げても快適な生活を送る事ができる。ザアカイは進み出た時にその事を知っていた。彼の心が変えられていたのだ。救いが律法によるものではなく恵みによるものだと分かっていたため、律法を満たすためだけに生きようとはしなかった。それ以上に進み出た・・・イエスは私たちを救うために、自身の命と血の‘十分の一’を捧げただろうか?それとも全てだっただろうか?・・・私たちは神が救いのために成された業を少ししか理解していない者達のように、収入のほんの一部を捧げるような者には決してなりたくない”(ティム・ケラー:偽りの神々)

シンプルな言葉で言うと、新約聖書の信者たちが旧約聖書の信者たちよりも多くの恵みを受け取っているなら、私達にはより自由に捧げる理由があります。

私たちが捧げる量は、無償の恵みという福音をどれだけ理解いているかを表します。または、自分自身のプライドのため(“私は定期的に什一献金を捧げている”)や恐れ(“もし捧げなければ面目が立たない”)によります。

しかし福音の中で、私たちはキリストにある神の恵みの動機づけられて捧げる事ができます“主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです”。

イエスは、私たちが永遠に富む者となるために貧しくなられました。神は私たちの心に福音の富を蓄えて下さったため、この地上の誰よりも与える事ができるのです。

パウロが(7節)“この恵みのわざにも富むようになってください。”と言っているのはこのためです。全てを私たちのために捧げて下さった裕福な王を驚き仰ぎつつ、私たちの恵みのわざにも富むようになりましょう。

牧師 Joey Zorina.