鍵がかかった扉と空っぽの墓 (ヨハネによる福音書 20:19-29)

鍵がかかった扉と空っぽの墓 (ヨハネによる福音書 20:19-29)

2020年4月12日(日)| ジョーイ・ゾリーナ牧師

今日、私たちがイースターをお祝いするこの時、コロナウィルスの感染拡大によって、多くの皆さんが、ソーシャル・ディスタンスで、家で過ごしていると思います。面白いことに、今日は、世界で最初のイースターの日の夜に、恐れから鍵をかけ、家の中にいた初期の弟子たちのことを見ていきます。今日のタイトルは、ヨハネの20:19ー29より「鍵がかかった扉と空っぽの墓」です。3つのポイントは、1. 閉じた扉の後ろで私たちを無力にさせる恐れ 2. 私たちを使命へと準備させるキリストの平安 3. 不信仰を信仰に変えるキリストの復活、です。

1.閉じた扉の後ろで私たちを無力にさせる恐れ

19~20節
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」

ここで、弟子たちは、鍵をかけたドアの後ろで恐れを抱いていましたよね?イエスさまが、金曜日に殺されて、その3日後の日曜日の夜の話です。19節に、「日曜日の夜に、ユダヤ人を恐れて、弟子たちは家の中で鍵をかけていた」とあります。(ユダヤ人の宗教的指導者たちのことです)なんでユダヤ人の宗教的指導者を恐れていたのでしょう? イエスさまの伝道活動を、いつも宗教的リーダーたちは嫌っていました。決まりごとを守るだけの「宗教」は、平安ではなく、絶えない不安をもたらしていました。それは、恐れを基にした宗教でした。人々にたくさんの不安を与えました。イエスさまに魅力を感じていても、7章13節にあるように、「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」のです。ユダヤ人たちの、恐れが基になって、決まりだけを重視した、律法的な宗教は、霊的に抑圧的なものでした。

公に、イエスさま側の人間だと言うことは、公共での屈辱と処刑を味わうことでした。今日の世界でも多くの場所でこのようなことが起こっています。ここでの弟子たちは、たくさんの恐れを抱いていました。人間を恐れました。恥を恐れました。そしてユダヤ人に殺されるかもしれないと、死を恐れました。あなたに質問があります。あなたが一番恐れていることは何ですか?その大きな恐れは、あなたを奴隷のように縛り付けていますか?「恐れ」と言う言葉に注目してください。それは、「大きな苦痛、差し迫った痛みに対する強い懸念により起こるもの、危険、悪」などを意味します。あなたの最大の恐れは、あなたに何を訴えかけてきますか?いいですか、あなたの恐れは、あなたの心の中の偶像(神さまよりも愛していることや優位にしていること)を示しています!コロナウィルスのこの状況を目前にして、ほとんどの人々は当然、健康、仕事、家族、友達を失うことを恐れます。しかし、どれほどの恐れでしょうか?それは私たちを無力にさせていますか?私たちの多くは、自宅の中で過ごす時、未知のものへの恐れに葛藤する姿を見るでしょう。いいですか、私たちの恐れの根底にあるものは、死への恐れなのです。なぜなら、死は、人生の終わりだと知っているからです。死は誰にでもやってきます。世界で一番貧しい人にも、世界で一番お金持ちの人にも、一般人にも、一番有名な人にも!死は、その時に違いはあっても、この世で一番平等に起こるものです。では、死が、あなたの家のドアを叩いたら、どうしますか?弟子たちは、その日曜日の夜、恐れおののいて鍵をかけた家の中にいました。イエスさまが彼らのところに来ました。19節の、後半には、イエスが来て真ん中に立ち、とあります。そして、「あなたがたに平安があるように」と言われました。イエスさまは、弟子たちにとって、最大の恐れを感じ、一番弱さを感じる時に来てくださいました。19章で死んだはずなのに、そのお墓が今は空っぽになっている、その方が現れたのです。気付きましたか?イエスさまは、超自然的な力で鍵のかかったドアを通り越して来たのです。なぜなら、死でさえも、イエスさまに鍵をかけ、抑えておくことはできなかったからです。そして、ここでイエスさまは、彼を見捨てた弟子たちを懲らしめに来たのではありません。思い出してください。イエスさまが捕らえられた時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マルコ14:50)

しかし、ここでイエスさまは、恐怖に震える弟子たちのところに、彼がよみがえったことを証明しに来られました。何と誠実で、恵み深い友でしょう!20節では、「手とわき腹とをお見せになった。」とあります。いいですか、キリストの復活は歴史的な事です。イエスさまが十字架で死なれた後、19章34節では「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。」とあります。わき腹を刺すとは、イエスが本当に死んだかどうかを確かめるためにした行動でした。しかし、ここで、イエスは弟子たちに自分が復活したことを証明するために、穴が空いた手とわき腹を見せてくれたのです。霊的な話ではなく、実際に身体に穴が空いていました。イエスさまは、本当に死からよみがえり、そしてこれは、これから復活を証明していく始まりでした。

では、恐れでいっぱいの弟子たちはどのように応答したでしょうか?「弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。死を恐れて鍵をかけて家の中にいたこの弟子たちは、キリストの復活を目の当たりにしたのです!そして彼らは、よみがえったキリストをみて「喜んだ」のです。いいですか、ユダヤ人の、律法的な宗教は絶えない恐れをもたらし、死をもたらしました。しかし、よみがえったキリストは、恐れを喜びに変えにきてくれたのです。イエスさまは、私たちの最大の恐れを追放し、平安と喜びを与えてくれました。では次のポイントを見ていきましょう。

2.私たちを使命へと準備させるキリストの平安

21-23節
「21イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

21節をよく見てください。イエスはもう一度、「あなたがたに平和があるように。」と言われました。19節で、すでに「あなたがたに平安があるように」と言っておられます。そしてここでイエスさまはもう一度言いました。これ、重要ですよね?「あなたがたに平安があるように」と言われました。ここでの平安、という言葉の意味は、神さまと人間の間の平和な関係、ということです。ここで質問です。

Q. あなたは今日、神さまとの関係に平安がありますか?あなたは、今、神さまと平安を持つことができます。なぜなら、イエスさまが復活したからです。イエスさまは「あなたがたに平安があるように。父である神がわたしをあなたのところへ遣わしたのだ。」と言いました。イエスさまは、罪、崩壊、苦しみのある世界へと、父なる神様によって遣わされました。神さまとの関係を正しく戻すために来てくれたのです。有名な3章16節の聖書箇所を覚えていますか?「神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」そしてここで弟子たちにこう言いました。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と。すごくないですか?イエスさまは、弱くて、臆病で、恐れに満ちた弟子たちを鍵をかけたドアを超えて、世界に遣わそうとしたのです。言い換えると、このソーシャル·ディスタンシングの時は、あなたの使命のための準備期間です。どれだけ信仰が大きいかで使命への資格が与えられるということではありません。あなたを使命へと準備させるのに、キリストは十分なのです。

三位一体のそれぞれの神の働き全てが関わっていることに気づいてください。父が、ご自身と罪びとたちとの関係を回復させるために、イエスさまを遣わし、イエスさまが、弟子たちを送り出そうとし(21節)、そして彼らに、彼らの人生と使命のために聖霊を与えました。(22節)「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。 』」イエスは弟子たちに平安を語り、彼らに息を吹きかけ、聖霊を受け取りなさい。と言われました。これは、さかのぼって、創世記2:7での世界の創造を思い起こされますよね?

神さまがアダムにどうやって命を与えたか覚えていますか?神さまがアダムに息を吹きかけたとき、アダムは生きた魂を持ちました。しかし、ここでは、キリストの息が、弟子たちに新しい人生を与えました。驚きです!!誰でも、キリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。(2コリント5:17)そして弟子たちは、ペンテコスト(聖霊降臨)の時にもっと聖霊の力を受けたのです。(使徒)それは、聖霊に満たされることなしでは、私たちは効果的な証人にはなれないのです。

では、どうやってキリストの平安と聖霊を持つことができるのでしょうか?ただ単純に受け取るだけです。なぜなら、イエスが、「平安があるように」と後すぐに「聖霊を受けなさい」と言っておられるからです。「受ける(Recieve)」とは恵みの言葉ですよね?キリストの平安はただ与えられ、受け取るものです。何かをしたから、得るものではないのです。聖霊は、ただ与えられ、受け取るものです。何かをしたからもらえるものではありません。いいですか、恐れによって無力になった状態は、あなたの息を取り去ります。死への恐れは、あなたの息を取り去ります。「死」そのものは、文字通り全ての息を絶やします。しかし、イエスさまは、人生に命を与えるために、平安を与えるために来られました。あなたの恐れを、落ち着かせる人生と平安が与えられ、困難な世界を乗り越えられます。14章27節では、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」とあります。分かりますか?キリストの平安は、慰めと、保証をもたらします。そして聖霊は、私たちを福音の使命へと準備させます。23節では、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」とあります。それは、とんでもない特権で、当然の責任です!ここでイエスさまは、弟子たちに人々の罪を赦す力があると言っているのではありません。それよりむしろ、救いを受け取る人は、赦されるということです。一方で、差し出された救いを受け取らない人は、赦されないままになるのです。とんでもないですね!赦されない状態のままにいるということは、神さまとの間に平安がないということです。罪を赦されないままの状態でいるとは、永遠に本当の平安が私たちの内にないということです。しかし、良いお知らせは、イエスさまが本当の平安をもたらすために来てくれたことです。いいですか、恐れに満ちた、弱い弟子たちは、聖霊の力により新しい人生、平安、力を持って遣わされていくのです。

では最後のポイントです。

3.不信仰を信仰に変えるキリストの復活

24-29節
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

さて、なぜイエスさまが来られた時、トマスは他の弟子たちと一緒にいなかたのでしょう?24節では、「イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった」とだけ書いてあり、なぜいなかったのかその理由は書かれていません。私たちが知っている情報の全ては、トマスは一緒にいなかった、ということです。今日でも、誰にも頼らないような、非常に独立した精神を持っているように見えるけれども、それは、誰かに対して責任を負うこと、お互いの人生の責任を負い合わない、そういう人もいます。しかし、ここでトマスを見て、他の弟子たちと一緒にいなければ、信仰が深まっていかないことが分かりますよね?25節では、他の弟子たちが、トマスに「わたしたちは主を見た」と言った。とあります。しかし、トマスは「いやいや、自分のこの目で、あの方の手に釘の跡を見るまで、この指を釘跡に入れてみるまで、この手をそのわき腹に入れてみるまで絶対に信じない。」と言いました。

トマスはこの時、実際に復活したイエスさまに会った、たくさんの人たちから、話を聞きました。それでも、彼は証拠を求めました。さて、皆さんは、リチャード・ドーキンスという有名な無神論者を知っていますか?リチャードは、こう言いました。「トマスは、科学者の守護聖人だ。」「宗教的信仰は、証拠がないというだけのことではない。その証拠を求めない信仰は、屋上から叫ぶような、プライドと喜びだ。なぜ他のクリスチャンは、トマスの疑いに対して批判的なのか?他の弟子たちにとっては、証拠が不十分でも、信仰で十分だったから、美しい模範として見られている。一方で、疑うトマスは証拠を求めた。彼は科学者の聖人であるべきだ。」

他の弟子たちに証拠が不十分だった、というのは真実でしょうか?トマスだけが、証拠を求めていたのでしょうか?面白いのは、20章1節で、全ての弟子たちは、マグダラのマリアの、墓の中にイエスの遺体がないという話から、現場に行って、実際に本当にないことを見て、信じました。例えば、6-8節で、ヨハネとペテロは、イエスを包んでいたはずの亜麻布が置かれているのを見ました。これは証拠の一つです。しかし、9節で、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった。」とあります。旧約聖書の全てはイエスさまを指しているからです。16節で、マグダラのマリアでさえも、イエスさまを目の前にして話し、それがイエスさまだと気付いたのは、イエスさまが彼女の名前を呼んだ時でした。そして、ここで、他の弟子たちも来て、そしてトマスに言いました。「私たちは、主を見た!」それは視覚的証拠です。彼らは、イエスを見たのです。それは、証拠と、視覚的経験を通してキリストが復活したという信仰を、弟子たち全員が持ったということです。後に、使徒パウロは1コリント15:6で、イエスは「500人以上もの人たちに同時に現れた」と記しています。500人が同じ瞬間にイエスさまを見たのです。これも視覚的経験です。

だから、トマスも、ある意味、別に他の弟子たちとそんなに変わりはないですよね?彼も、他の弟子たちが見たように、見たかったのです。科学的発見の過程は、神様からの贈り物です。26節では「弟子たちはまた家の中におり。。。」とあります。そして、その時はトマスも一緒にいました。ドアに鍵がかかっていたのに、イエスさまは彼らの真ん中に現れました。そして、「平安があなたがたにあるように。」と言いました。イエスさまは、自ら来てくれたのです。自ら、弟子たちが自分を発見するように、来てくれたのです。来て、ご自身を明らかにしてくださったのです。来て、弟子たちの真ん中に立ってくれたのです。イエスさまは、時間や空間を超える方です。イエスさまは、他の弟子たちに与えたように、トマスにも福音の平安を与えに来たのです。分かりますか?他の弟子たちに、復活した証拠を見せたように、トマスにもその証拠を見せに来てくれたのです。27節で、「あなたの指をここに当ててごらん。私の手を見て。そしてわたしのわき腹にあなたの手を入れてごらん。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言いました。私たちの心に、どれほど、信じない心が何層にも重なっているのが分かりますか?イエスさまにある信仰の成長は、過程であり、旅なのです!トマスは、疑ったのではなく、信じなかったのです。そして、イエスさまは、その信じない心を信仰へと変えに来てくださったのです。

そしてついに、トマスは28節でこう言います。「私の主、私の神よ!」トマスは、イエスは、復活したキリストであり、神の一人子だと告白しました。29節ではイエスさまはなんと言いましたか?「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」イエスさまのこの問いかけは、批判して責めているのではありません。弟子たちを育てるための、優しい質問でした。トマスを教え、導き、トマスが成長した瞬間でした。イエスさまが言った、「見ないのに信じる人は幸いだ。」という意味は、イエスさまは、すぐに天に昇っていかれるから、後の人々に、この時弟子たちに会ったようには会えないけれども、福音を聞いて、イエスさまを伝える話、メッセージを聞いてイエスさまを信じる人々のことを指していました。

だから、今日、もしあなたがまだキリストを見ていないけど、イエスさまを信じているなら、あなたのその信仰は神様からのギフトです。あなたが、イエスを信じる者であることに不思議と驚きを感じたことはありませんか?あなたが、信じる者であること、クリスチャンであるということは、奇跡なのです!ローマ10:17では、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。もしあなたが、信仰を強めたいなら、あなたがすることはべき必要な全ては、毎日、キリストの言葉を聞くことです。イエスさまは、信仰は、理屈以下ではなく、理屈以上のものだと言います。信仰は、新しい目でイエスさまを見ることです。新しい目、あなたの心の目で、です。トマスは、発見の過程の中で、彼一人での力では科学的結論に到達することができませんでした。だから、イエスさまが彼のところに来て、言ったのです。「わたしの手を見てなさい。あなたの手をわたしに当てなさい。」

この瞬間、トマスの目はついに開かれました。彼はイエスに「私の主、私の神!」と言いました。今日、あなたがこのメッセージを見て聞いていて、まだイエスにある信仰を公に告白していないなら、告白することを励ましたいです。イエスさまは、トマスに言ったように、あなたにもこう言われています。「見ないのに信じる人は、幸いです。」信じるということは、キリストを見るということです。あなたはイエスを、あなたの心の目で、信仰の目で見るのです!これが、イエスさまが言われている、「祝福された、幸せな」信仰です。

イエスさまは、平安の祝福とともに来られました。なぜなら彼ご自身が私たちのために呪いを受けられたからです。私たちが信仰によって祝福されているのは、私たちの不信仰のために、イエスさまが呪われたからです。私たちが死ぬべき罪のために、イエスさまは十字架にかけられました。何にも罪を犯していない、世界で一番きよい手は、十字架の上で、釘を打たれました。私たちのために。私たちの手が、他の人々を助け、仕えることができるようにするために。イエスさまのわき腹は、私たちが癒されるために刺されました。そして釘を打たれた彼の手は、私たちを前進させるため、導いてくれます。イエスさまは、私たちが生きるため、2度ど、堕落を味わうことがないようにするため、死から復活されました。地獄のどんなドアも私たちを閉じ込め、鍵をかけることはできません。死は、私たちに対してその力を失ったのです。いつか、イエスさまは再び来られ、私たちの卑しい身体を彼の栄光の身体のように変えてくださるのです。あなたが病気だったり、身体的な痛みで苦しんでいたら、いつかイエスさまは、あなたに二度とその痛みのない身体に造り変えてくださるのです。

今日、イエスを見ましょう。イエスを受けましょう。そして、イエスが戻ってくることを待ち望みましょう!その日はすぐにやってきます!

Sermon Video in English
Locked Doors And The Empty Tomb | Covid-19 Series | John 20: 19- 29